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母玉江の思い出。その4...
父と母は結婚して浅草の阿部川町に所帯を持った。現在の元浅草3丁目あたりを言うが元浅草の「元」とは何か?いまだに納得がいかない。所帯を持った家は、現在木版絵の摺り師長尾さん宅の裏あたりだ。長尾さんは千社札でお世話になっているのでお付き合いがある。父と母は、数年で寿町に戻ってきた。
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母玉江の思い出。その3...
根っからの浅草っ子であった母は、お醤油は「おしたじ」、味噌汁は「おみおつけ」、斜めを「はすっかい」、それと「塩梅(あんばい)」は料理と限らず道具使いや天候にも使っていた。
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母玉江の思い出。その2...
母玉江の父親は、浅草寿町で洋服の仕立て職人をしていた。当時としてはモダンな仕事だったようだ。
私が子供のころ、祖母はアメリカのお酒は「ウエスキー」と、飲み水は「ワラ」だと教えてくれたことがある。なぜ英語を知っているのかと聞いたら、祖父が注文を受け、仕立てた背広をアメリカ兵に売るときに覚えたそうだ。 -
母玉江が昨年暮れの28日に旅立ちました。亨年九十五...
母の思い出。その1
母とパイプとの関係で思い出すことがある。母は五男二女の子持ちで、戦中と戦後すぐに二人の男の子供を亡くしてる。長男と私のすぐ上の四男。私は三男だが、正確には五男だ。