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恭三郎の部屋

ROOM OF KYOZABURO

柘製作所代表取締役・柘恭三郎のブログ。

母玉江の思い出。その2

母玉江の父親は、浅草寿町で洋服の仕立て職人をしていた。当時としてはモダンな仕事だったようだ。
私が子供のころ、祖母はアメリカのお酒は「ウエスキー」と、飲み水は「ワラ」だと教えてくれたことがある。なぜ英語を知っているのかと聞いたら、祖父が注文を受け、仕立てた背広をアメリカ兵に売るときに覚えたそうだ。

この祖母にも、面白いエピソードがある。昭和三九年東京オリンピックの時だ。我が家の床の間に鎮座ましますテレビの前に座って入場式を見ていた時。子供たちの鼓笛隊を先頭に外国人選手団が入場してきた。しばらくたってから祖母は「アメリカという国はどっさりあるんだね」と言った。高校生だった私は、世界地図を持ってきて日本の位置とアメリカの位置を説明をした。きっと祖母の頭の中はアメリカという言葉は、世界と同義語だったのだろう。

母は洋服の仕立て職人の子供だったので、小学校二年か三年生のころ洋服のスカートを作ってもらって学校に行った。その時、クラスで洋服を着ていたのは二人だけだったと自慢していた。殆どの小学生は着物だったらしい。その頃の母の写真が残っているが、町内にある黒船神社で友達と二人で写っている。母の記憶では誰だったか忘れたそうだが、浅草雷門町会にある鰻屋「色川」さんの娘さんと仲が良かったので彼女だと思う、と言った。その色川さんの娘さんとバケツを持って、鰻の肝を浅草中にある鰻屋から運ぶ手伝いをした。大正時代から昭和に初めにかけて、色川さんは二軒あり、一軒は蒲焼屋でもう一軒は鰻の肝専門に商いをしていた。母は子供のころ風邪を引いたら焼いた肝を食べさせられたそうだ。鰻の肝は下町のビタミン源だったのだろう。

九月一日になると、関東大震災の話をしていた。人形を持って上野駅まで行って、列車の下をくぐりながら上野の山に登って西郷さんの銅像の傍に避難をした。その時、二人の大人が米俵一俵を母に「みんなで食べな」と置いて行った。きっと救援隊がはこんできたものだったのだろう。母か通っている田原小学校も焼けしまい。復興後、校庭でミカン箱を机にしたか、椅子にしたかして勉強をしたそうだ。

小学校を出ると上野にあった洋裁学校で洋裁を学び、祖父の仕立ての仕事の手伝いをした。近所の若い男が、私がミシンをかけていると、のぞきに来たもんだ、と自慢をしていた。