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恭三郎の部屋

ROOM OF KYOZABURO

柘製作所代表取締役・柘恭三郎のブログ。

母玉江の思い出。その4

父と母は結婚して浅草の阿部川町に所帯を持った。現在の元浅草3丁目あたりを言うが元浅草の「元」とは何か?いまだに納得がいかない。所帯を持った家は、現在木版絵の摺り師長尾さん宅の裏あたりだ。長尾さんは千社札でお世話になっているのでお付き合いがある。父と母は、数年で寿町に戻ってきた。

その時は寿町三丁目(現寿四丁目)の二階建ての職場兼住居だった。その家の左隣りの二階がやくざもんが集まる賭場だった。その賭場に時々警察の手入れがあり、二階から客だのやくざもんが逃げてくる。女性まで逃げてきたそうだ。その女性は屋根越しに窓から飛び込んできて、手拭で姉さんかぶりをして、ぞうきんがけを始める。その後に警官が追ってくるが、知らんふりをして掃除を続けていたそうだ。母は毎度のこと慣れているので、そのままにして自分の仕事をしていたし、父達職人も仕事の手を休めなかったそうだ。ほとぼりが冷めたころ菓子折りを持って子分達が謝りに来ていたという。浅草らしい土地柄だ。

母が小学生だったころ、一年後輩に噺家の柳家小里んの親父さんがいた。母の同級生や田原小学校の卒業生は近所に何人かいたが、今では、八百亀さんのおさわちゃん(母と同い年)だけしかいなくなってしまった。母は活発な子供だったらしく、小里んさんの親父さん達を連れて田原小学校代表で観音裏の富士小学校にドッチボールの試合に行ったそうだ。子供のころ「お玉ちゃんは元気か」と近所の人たちに、よく尋ねられた。

職人上がりの頑固な親父と、よく生活していたものだ。子供のころいう事を聞かないと、足を持たれて風呂に頭から突っ込まれたことが数回ある。厳しい父親であった。父親の晩年、ある夕食の時、親父はほほに手を当てていて、歯が痛そうな顔をしていた。孫の一人が「おじいちゃん、歯が痛いの?」と聞くと、親父は真顔で「俺は痛くないが、歯が痛いと言っているんだ」と答えていた。孫たちの驚いた顔ったらなかった。
親父は決して「疲れた」「痛い」という言葉は職人にはないと常々言っていた。あっしが部活で疲れて帰って来ても「部活で疲れたよ」なんて言おうものなら「男は疲れたというな」と怒られた。十三歳で職人の丁稚奉公に入ってからは疲れても、歯が痛くても仕事を休めなかったのではないか。その厳しい仕事を続けるには「疲れた」「痛い」等の身体的な感覚を無くすために、言葉も消していたのだろう。

生前、柘製作所の職人達は父がヤスリを持つ手や指先は真似ができない、さまになっていると言っていた。長年ヤスリがけをしていたもので、人差し指が反り返っているのだからしょうがない。